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歩み

空手道の普及をめざし、地域と共に歩んだ60有余年。

創設期

 船橋市で空手道が行われるようになったのは、戦後間もない昭和22年2月10日、元千葉県空手道連盟理事長であった山下仁先生が弱冠20歳で日本大学空手道部主将の傍ら、和道流空手道流祖初代大塚博紀先生の信任を得て、当時日本大学空手道部の湯浅秋良、山名昭義両先生と明治大学空手道部の須藤正男先生の四氏で、和道会船橋支部を創立したことに始まる。当時の空手界は未曾有の混乱期であったが、戦地から無事帰還した学徒出陣者の手によって、各大学空手道部が復興活動をようやく開始した時期であった。山下仁先生においても、日本大学空手道部を昭和20年10月に、(財)全日本空手道連盟第3代専務理事若林英一先生らとともに発足させ、2代主将として同部の基礎を築きながらの、和道会船橋市支部設立であった。

 昭和30年11月3日、和道流船橋支部は船橋市体育協会に加盟し、団体名称を全日本空手道連盟船橋支部と併用して船橋市体育協会空手部と称した。この頃になると、日本国内の世情も安定期に入り、昭和32年の第1回全日本学生空手道選手権大会を皮切りに、各会派団体が空手道の競技化を図り、大会を開催するようになる。船橋市においても剛柔流勝正館船橋道場が西部公民館にて開設。また神道天心古流拳法が開設され、船橋市における空手道の発展期を迎え、団体名を船橋市空手道協議会とした。

 日本国内で見ると、昭和39年4月に「全日本空手道連盟」結成され、昭和44年6月に財団法人の認可を得、会長に笹川良一先生を戴き、同年10月10日、第1回全日本空手道選手権大会が東京の「日本武道館」で開催されるに至る。ここに全日本空手道連盟が、日本の空手道界を統括する競技団体として名実ともに胎動したのである。この頃各県において、全日本空手道連盟傘下の県連盟の組織化が活発に行われるようになり、昭和45年、千葉県空手道連盟の結成へとつながるところとなる。

 船橋市においても、日本空手道誠心会や岩城硝子空手道部、船橋市役所空手部等多くの団体が加わり発展していった。

充実期 昭和45年~平成5年

 昭和45年に千葉県空手道連盟が結成されると、翌年第1回千葉県空手道選手権大会が開催され、さらに、昭和51年には千葉県民大会に空手道競技が正式種目として加わり、(財)千葉県体育協会加盟団体としての千葉県空手道連盟が競技主管団体として、県民の体育の向上のため、千葉県民体育大会の空手道競技を運営するにいたるのである。

 船橋空手道協議会には新たに全日本空手道剛柔会船橋支部が加わる。

現在 平成5年~

 連盟創立から会長に就任され、船橋市における空手道興隆の最大の貢献者山下仁先生が逝去、享年67歳。 平成6年、湯浅秋良先生が会長に就任した。
 平成8年、市内における空手道を統括し加盟団体の理想的な発展を図るため、組織名を船橋市空手道協議会から船橋市空手道連盟と改名。
 平成10年に西山裕康先生が会長に就任して、昭和54年第2回大会を最後に長らく途絶えていた市民空手道大会を平成11年6月に船橋アリーナで復活したが、同年7月に急逝。
 平成12年から三橋勝吾先生が会長に就任する。
 船橋空手道連盟には日本空手道濤空会、日本空手協会船橋支部三田空手クラブ、日本空手協会京葉支部大敬塾、沖縄空手道剛柔流尚礼会、秀明八千代高校空手道部及び船橋東高校空手道部が加わり現在12団体が組織する団体に発展した。

主な活動

船橋市民空手道大会
昭和53年第1回、翌年第2回を開催するも、諸事情により中断した。念願の第3回大会を平成10年から再開。平成17年には記念の第10回大会開催する。
昨年の第12回においては形競技、組手競技合わせて延べ人数700名を超える選手の参加する大会に発展した。
千葉県民大会空手道競技
昭和49年第27回大会に公開競技になり、昭和50年第28回大会から正式競技となる。
船橋市の成績は男子が昭和53年、55年、56年、58年、59年、61年、平成2年、3年、4年、7年、8年に優勝する。
平成元年の第42回大会から女子も加わり、船橋市女子は平成3年、4年に優勝する。
平成9年から千葉県空手道連盟の内規により関東大会及び国民大会出場選手の参加ができなくなり結果が出せない中、平成19年大会では船橋市は若手選手の活躍により第3位を勝ち取った。